第三話 青山キャンパス変遷

 前の話にも書きましたが、青山学院はD・E・スクーンメーカーらによる麻布の女子小学校(女子系・1874年)、ソーパーらによる築地の耕教学舎(男子系・1878年)、そしてマクレイらによる横浜の美會神学校(男子系・1879年)の三つのミッションスクールを基礎にして、それらが1882年米国メソジスト監督教会のガウチャー博士の寄付によって購入された現在の青山キャンパスの敷地に集まり設立された学校です。したがって、青山学院はメソジスト教会が大団結して合同した大学園ということになります。

 ここで、メソジスト教会とは何であるかということについて少し話したいと思います。
 キリスト教メソジスト派とは18世紀英国のオックスフォード大学に奉職していたJ・ウェスレーによって提唱された宗派で、その語源は method (メソッド=規律・秩序)から来ています。
 これは、当時英国国教会の華美性やキリスト教社会の秩序の崩壊を危惧したウェスレーがオックスフォード大学内に作った聖書の勉強会がその発端で、彼らは大学内において異端であり、当局からも目をつけられ、一般学生からも疎まれました。
 そして、一般学生が彼らを揶揄すときに使った言葉が methodist (メソジスト 頑固者とか規律屋さんとか言うニュアンスだったのでしょうか)という言葉だったのです。
 メソジスト宗派はウエスレー死後もプロテスタントの一宗派として成長し、新大陸アメリカにおいて大きく発展しました。現在はアメリカ合衆国国内だけでおよそ1200万人もの信者を持つアメリカ・プロテスタント最大の勢力となっており、合衆国大統領もW・マッキンレーJ・F・ケネディなど数多く輩出しています。

 話はキャンパスに戻り、1882年から1888年にかけて、この三つのミッションスクールが青山キャンパスに集結し、現在の青山学院の原型が固まりました。
 1894年には当時の名称であった東京英和学校から青山学院に名称を統一し、学生数も飛躍的に増加していくことになります。
 1890年以降国粋主義が台頭してきてキリスト教学校は多くの苦難を味わうことになりますが、青山学院はそうした中でもウエスレーがそうであったように、信仰に対して決して妥協することなく、こうした苦難を正面から受け止めていきます
 そうした青山学院のプロテストの姿勢の中からは多くの有能な人材が輩出されていきました。
 彼らは母校を愛し、そして母校の将来を慮って有形無形の多くの支援を行ないます。そして、青山学院のキャンパスには次第にこうした多くの校友たちのかけがえのない有形無形の想いの篭った素晴らしい校舎が整備されていったのです。


 上の写真は1918年頃の青山キャンパスの校舎群です。
 向かって一番右側の校舎は勝田館といって校友勝田銀次郎氏の寄付によって建設された壮麗優美な校舎で、この校舎を設計したのは東京駅の設計者でもある辰野金吾氏です。当時、この校舎は東京で最も趣のある建物のひとつとしてつと有名でした。しかし、残念なことに、この校舎は1923年に突如として起こった関東大震災によって崩壊してしまいます。
 建設後わずか5年ほどしか存在しなかった校舎ですが、この校舎はその後も多くの校友たちの胸に刻まれました。キャンパスの校舎とはその学校の教育の姿勢や伝統を最も忠実に体現するものです。現在の青山学院がウエスレーの築いたプロテストの精神と永い歴史、そして有名無名の多くの諸先生、諸先輩の努力と愛情の上に成り立っていることを感じられるようなそういう校舎が多く作られていくことによって入学してくる後輩たちは青山学院の学生であるという誇りを一層高く感じるのでしょう。.