| 青山学院の歴史 | |||
| 1549年 | フランシスコ・ザビエル 日本にキリスト教を伝える | ||
| 1612年 | 徳川家康 禁教令を出す | ||
| 1639年 | 鎖国令 | ||
| 1853年 | ペリー 浦賀に来航、開国を迫る | ||
| 1854年 | 日米和親条約締結 | ||
| 1868年 | 明治元年 | ||
| 1873年 | キリスト教禁制の高札撤廃 | ||
| 1873年 | (明治6年)横浜に米国メソジスト監督教会日本宣教部設立 | ||
19世紀半ば、明治維新を経て日本は近代国家への道を歩み始めた。しかし明治新政府は依然としてキリスト教禁制の高札を立て、これを国禁とした。 1871(明治4)年、条約改正のため欧米に派遣された岩倉具視らの一行は、日本がキリスト教の禁制と迫害を止めない限り、欧米諸国との条約改正の交渉が全く問題にされないことを知り、明治政府にキリスト教解禁を上申した。 1873(明治6)年明治政府は「太政官布告第68号」を発し、キリスト教禁制の高札を撤廃した。これは条約改正のためのやむを得ざる措置であって、信教の自由公認とはほど遠いものではあったが、これによってキリスト教宣教活動が行えるようになったのである。 1872(明治5)年米国メソジスト監督教会は日本宣教を決定。翌年、キリスト教禁制高札撤廃の年に、その最初の宣教師を日本に送った。ロバート S.マクレイ、アーヴィン H.コレル、ジュリアス・ソーパー、メリマン C.ハリス、ジョン C.デヴィソンの5人である。 ------------------------------------------------------------------ |
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| 1883年 |
「東京英学校」は現在の青山の地に移転し、「東京英和学校」と改称 | ||
| 1888年 |
「海岸女学校」の上級生は、現在の青山の地に移り「東京英和女学校」と称す | ||
| 1890年 | E.M.ブラックストック 海岸女学校に手芸教室を開く | ||
| 1893年 | 「海岸女学校」に幼稚園を開園 | ||
| 1894年 |
「東京英和学校」は「青山学院」と改称。神学部、普通部(高等普通学部・英語師範科・予備学部)を置く 「海岸女学校」を閉鎖し、「東京英和女学校」に合同 |
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| 1894年 | (明治27年)日清戦争始まる | ||
| 1895年 |
「東京英和女学校」は「青山女学院」と改称、普通学部(高等科・予備科・普通科)、手芸部、幼稚園を置く | ||
| 1899年 | 「文部省訓令第12号」公布。宗教教育に支障をきたす | ||
| 1899年 | 青山女学院手芸部は独立し、「青山女子手芸学校」となる | ||
| 1900年 | 青山女学院同窓会発足(後に青山女学院校友会と称す) | ||
美會神学校と東京英学校の合同を前提として、新しい校地の購入が検討された。敷地の選定委員は、青山南町7丁目1番地に高等教育を行うための理想的な土地を見つけ、米国メソジスト監督教会に土地購入資金を要請した。これに応じたジョンF.ガウチャー個人の寄付によって1882(明治15)年秋、総額6千円で、伊予西条藩松平左京大夫上屋敷跡地約3万坪を購入した。これが、現在の青山キャンパスの中心となったのである。 海岸女学校では生徒数が増加したため、東京英和学校の敷地の一部を40年の期限で借り、上級生のみを移して1888(明治21)年東京英和女学校として授業を開始した。 1894(明治27)年、東京英和学校は青山学院と改称。その5年後の1899(明治32)年、「文部省訓令第12号」が発令された。この訓令は実質的にキリスト教教育を行う私立学校を弾圧するものであり、宗教教育を続けるのであれば、高等学校への入学資格や徴兵猶予などの特典がなくなるというものであった。この時に学院は建学以来の精神を貫き、毅然としてキリスト教に基づく教育を続ける道を選択した。失われた特典は、キリスト教主義学校代表者たちの政府との忍耐強い折衝により、数年で回復された。 ------------------------------------------------------------------ |
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| 1904年 | (明治37年)日露戦争始まる | ||
| 1904年 |
青山学院高等科・神学部は専門学校の認可を受ける 青山女学院英文専門科は専門学校の認可を受ける |
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| 1914年 | (大正3年)第一次世界大戦勃発 | ||
| 1916年 | 「青山学報」創刊 | ||
| 1923年 |
(大正12年)関東大震災により、青山学院・青山女学院の建物諸施設大破 | ||
| 1924年 | 青山女学院創立50周年記念式挙行 | ||
大正期に入り、青山学院では教育内容の充実と教育環境の整備が進み、生徒数も大幅に増加した。 1918(大正7)年の大学令公布を機に、青山学院理事会は、1920(大正9)年、独自に大学設置計画を進めることを決定した。しかしながら同計画は、翌年の高木院長の急逝、さらに関東大震災の発生により、次の機会に委ねざるを得なくなったのである。 青山女学院も大正期に入り発展を続けていたが、英文専門科は、関東のミッション・スクールで唯一専門学校の認可を受けていたにもかかわらず、連合キリスト教主義女子高等教育機関として1918(大正7)年に創立した東京女子大学の基礎固めに協力するため、1920(大正9)年3月をもって閉鎖した。かわって実務科、家政科、裁縫研究科を新設した。 ------------------------------------------------------------------ |
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| 1927年 |
4月「青山学院」と「青山女学院」の合同文部省より認可される 8月青山女学院の名称を青山学院高等女学部と改称(青山学院は神学部、高等学部、中学部、高等女学部[専攻科・本科]を置く) |
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| 1932年 | 男子部創立50周年記念行事開催 | ||
| 1933年 |
高等女学部専攻科(家政科)は専門学校として認可され、女子専門部(家政科)と改称 | ||
| 1937年 | 青山学院小学財団設立、青山学院緑岡小学校・同幼稚園開校 | ||
| 1939年 | 第二次世界大戦 勃発(ドイツのポーランド侵攻) | ||
| 1943年 | 神学部閉鎖 | ||
| 1944年 | 専門部(文学部、高等商業学部)を閉鎖し、明治学院に合併 | ||
| 「青山学院工業専門学校」を開校 | |||
関東大震災による復興事業は、かねてから考えられていた青山学院と青山女学院合同計画を具体化させる契機となった。 1927(昭和2)年4月、青山学院財団寄付行為の一部変更が認可された。合同後の青山学院は神学部、高等学部、中学部合わせて2,000人を超える学生生徒に旧青山女学院の学生生徒を加え、約3,000人の学生生徒を擁する学園となった。 1941(昭和16)年12月8日、日本のハワイ真珠湾攻撃をもって太平洋戦争が始まった。日本の教育体制は「皇国ノ道」を目的とする方向に転換されたのである。学院構内には教職員・学生生徒の姿が少なくなり、大部分の校舎は交通局や軍関係の諸機関に転用された。そして1945(昭和20)年5月25日の夜間大空襲により、青山学院の約7割の建物が焼失したのである。 8月15日、太平洋戦争は日本の敗北をもって終わった。 ------------------------------------------------------------------ |
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| 1946年 | 青山学院工業専門学校を「青山学院専門学校」と改称 | ||
| 女子専門部を「青山学院女子専門学校」と改称 青山学院小学財団を青山学院に合併し、「青山学院緑岡小学校」を「青山学院初等部」と改称 米国メソジスト教会より、宣教師再び日本に派遣される |
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| 1947年 |
新学制による「青山学院中等部」発足 青山学院専門学校横須賀分校開校 |
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| 1947年 | 「教育基本法」公布 | ||
| 1949年 |
新制大学として「青山学院大学」を開校。文学部、商学部、工学部を置く 青山学院創立75周年記念式挙行(明治7年を創立年とする) |
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| 1950年 |
大学に第二部を開設 「青山学院女子短期大学」を開校。家政科、文科(英文専攻・国文専攻)を置く 「青山学院女子短期大学」を開校。家政科、文科(英文専攻・国文専攻)を置く 「青山学院高等部」(男女共学)開校 |
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| 1951年 | 「財団法人青山学院」を「学校法人青山学院」に組織変更 | ||
| 1952年 | 大学院を開設 | ||
| 1956年 | 青山学院校友会と青山女学院校友会の合同 | ||
戦後の青山学院は専門学校、女子専門学校、中学部、高等女学部、初等部をもって新しく出発することとなった。 1946(昭和21)年4月には緑岡初等学校を継いだ「初等部」が設置され、また専門学校も、英文科・経済科・機械科・土木建築科をもって「青山学院専門学校」として開校。女子専門部は同年4月に「青山学院女子専門学校」と改称し、学科を文科・外国語科・家政科・家事専修科に改組した。 1947(昭和22)年、新学制による組織として、前期中等教育を行う男女共学の「中等部」(3年制)を設置した。翌年中学部を後期中等教育を行なう「高等部」に、高等女学部を「女子高等部」とし、1950(昭和25)年4月、この二つを統合して男女共学の「高等部」を設置した。 1949(昭和24)年2月、「青山学院大学」の設置が認可され、同年4月、文学部・商学部・工学部(横須賀分校)の3学部をもって開校した。翌1950(昭和25)年、青山女学院以来培われてきた歴史と伝統を受け継いで、「青山学院女子短期大学」が文科(国文専攻・英文専攻)・家政科の2科をもって開校した。 ------------------------------------------------------------------ 大木金次郎第11代院長(1960〜1989在任) ------------------------------------------------------------------ |
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| 1964年 | 東京オリンピック | ||
| 1964年 | 「青山学院教育方針」発表 | ||
| 1965年 | 大学廻沢キャンパスを開設し、理工学部を置く | ||
| 1968年 | (昭和43年)大学に学生紛争始まる | ||
| 1969年 | 警察による大学学生会館への強制立ち入り捜査入る | ||
| 1971年 | 東京神学大学生編入学問題起こる | ||
1961(昭和36)年には青山学院幼稚園を開設した。1937(昭和12)年に設立し、戦時中やむなく閉園した緑岡幼稚園のキリスト教保育が、新設幼稚園において再開されたのである。 1964(昭和39)年創立記念日当日、新築なった青山学院記念館において「青山学院創立90周年記念式典」を挙行した。「青山学院教育方針」が成文化されたのは、この時である。90周年を記念して数々の行事が開催され、翌年には『青山学院九十年史』を刊行した。 大学では1965(昭和40)年世田谷区廻沢に理工学部を新設した。1960年代の思想の潮流として、先進諸国を中心に「大学紛争」の嵐が吹き荒れたが、紛争が続く中、学部・学科組織などの改善と大学院研究課程の増設と充実を図り、総合大学としての体制を整えていった。 ------------------------------------------------------------------ 大木金次郎第11代院長(1960〜1989在任) ------------------------------------------------------------------ |
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| 1974年 | 青山学院創立100周年挙行 | ||
| 1977年 | (昭和52年)大学文学部神学科廃止 | ||
| 1982年 |
(昭和57年)大学厚木キャンパスを開設し、主に第一部一般教養課程を教育 | ||
| 1986年 | 「青山学院高中部」(中・高6年制一貫教育)発足 | ||
| 1990年 | 国際政治経済学研究科に国際ビジネス専攻修士課程(夜間大学院)設置 | ||
| 1991年 | 青山学院将来計画委員会設置 | ||
| 1998年 | 青山学院第二次将来計画委員会設置 | ||
| 2003年 |
大学厚木キャンパス・世田谷キャンパスを閉じ、相模原キャンパス開学 | ||
| 2004年 | 青山学院大学専門職大学院法務研究科設置 | ||
1982(昭和57)年、大学教育の充実と校地の拡張を図るため、厚木市に校地を購入。文科系各部の1・2年次生及び世田谷キャンパスの理工学部1年次生を移し、厚木キャンパスを開学した。 1986(昭和61)年、6年制一貫教育の実現を図るため高等部と中等部の組織を一本化し、「高中部」を発足させた。 2003(平成15)年4月、大学は厚木キャンパス・世田谷キャンパスを閉じ、新たに相模原市渕野辺駅近くに、厚木および世田谷キャンパスの機能を合体した文理融合型の相模原キャンパスを開学した。学生・教職員あわせて約1万人規模のキャンパスで、開学と同時に、新しい全学共通教育システム「青山スタンダード」がスタートした。これは卒業学部に関わりなく、一定の範囲の知識・教養を持っていると社会的に評価される学生を送り出す、とのコンセプトから組み立てられた教育プログラムである。相模原キャンパスは構想当初から、「高度情報型キャンパス」、「国際交流型キャンパス」、「地域共生型キャンパス」、「環境共生型キャンパス」、「人にやさしいキャンパス」という5つのコンセプトを掲げ、質の高い教育サービスを提供している。 |
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