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断雲をぬって飛翔するゼロ戦11型(坂井三郎氏撮影)
元青山学院中学部生徒

元海軍中尉 「大空のサムライ」

 坂井三郎氏 逝く



稲葉八朗(S38経)
 

   坂井三郎氏について

元海軍中尉・ゼロ戦の名パイロットとして、全世界に知られていた坂井三郎氏が、本年9月に亡くなられた。

大正5年、佐賀に生まれた氏は、幼いとき父を失い、東京の伯父の家から青山学院中学部に通学していたが、本人の語るに、度を越した腕白からわずか1年ほどで退学になったそうだ。しかし、たとえ、在校期間は短くてもまぎれもなく、青山学院校友であった。



     青山学院中学部時代の坂井氏

坂井三郎空戦記録 『ヒコーキの心

東京爆撃の帰途、松戸上空を通過するB29を近所のおじさん達が眺めていたことは覚えているが、小生にはB29は見えなかった。だが、小学校1年の夏休みに海に行くとき、木更津上空を二機の無塗装のP51ムスタングが、キラキラ機体を輝かせて飛んでいたことは、はっきり記憶に残っている。

坂井氏との出会いは小生が中学1年の時に買った「坂井三郎空戦記録」(日本出版共同株・昭和28年発行 上下各160円で)だった。
かなりぼろぼろになっているが、いまでもそばにある。

戦時中の日本機についての書籍や元パイロットの戦記が出はじめた頃だったが、「坂井三郎空戦記録」はまさに、その先がけだったと思う。

その後数多くの戦記物が現在なお出版されつつあるが、支那事変の「初陣・初撃墜」から、氏が大負傷し、その後第一戦を退く原因となったガダルカナル上空の戦闘(昭和17年7月)までがメインの、この空戦記が、その後出版社が変わっても、ほぼ同じ内容で(内容は克明に、より技術的になって、氏の空戦技術「ひねりこみ」について東大教授の工学的分析まで進んだが・・・)、現在もなお空戦記のベストセラーとして出版されつづけていることは、氏が戦争屋・単に撃墜数を誇るだけのものではなく、戦闘者・ゼロ戦武芸者として、技の練達への精進への姿勢、また、戦闘においてもヒューマ二ティー併せ持つ氏の感性が、敵味方を超えて共感を持たれ、だからこそ、日本に先立ち、海外から「サムライ」と称され、その書名で全世界に翻訳され、いずれもベストセラーとなったのではないか・・・

スラバヤ空襲の時(昭和17年当初)、戦場にゼロ戦を誘導する神風偵察機(武装なし・単座のゼロ戦は遠距離を進行する時は、複座の偵察機に誘導されるときもあった) のパイロットが、「今日は空戦を観戦するから、もし敵機に追われたら助けてくれ」と言ったところ、同期のゼロ戦パイロットが、「よし、おれに任せておけ!」と約束した。

坂井氏は出撃に際し常にライカを持参し、時には撃墜した敵機も撮影したという。写真の腕も相当なものだった
坂井三郎氏搭乗のゼロ戦11型
偵察機は、空戦を観戦していたが、ついつい戦場に近寄りすぎて、3機の敵戦闘機に追われてしまった。
同期のゼロ戦パイロットは5〜60機の乱れ討つ、激しい空中戦の中でそれを発見し、攻撃をかけた敵戦闘機3機をあっという間にバタバタと打ち落とし、偵察機のそばによって、風防を開け 「約束は守ったぞ!」 とバンザイすると、助けられた偵察機も 「ありがとう」 と敬礼。
そのゼロ戦(中田二飛曹)もにっこり笑って敬礼し、ヒラリと翼をひるがえし、また戦場に戻った・・・・・
47〜8年前に読んだものだが、名人パイロットの時代のいまでも胸が高鳴る話である。


ガダルカナル上空で、氏の小隊列機(坂井氏は戦闘機小隊3機の小隊長として、2機の部下を率いたが、戦闘期間を通し、部下・列機を1機も失わなわなかった)を追いまわしていたグラマンF4Fを発見し一騎討。

はげしいドッグファイトののち、絶対勝利のポジションについたが、その時初めて自らの弾丸で血を流したグラマンパイロットを見て、ショックを感じたと言う。そして止めは、操縦席をではなく、エンジンを狙って撃墜した。
そのパイロットはパラシュートで脱出したが、体はだらりと下がっていて、坂井氏はその好敵手に対し、「彼はおそらく助からないだろう。戦争とはいえ、君を殺して申し訳なかった」と述懐している。
(しかし、そのパイロットは生存しており、戦後坂井氏と対面したそうだ)

 グラマンF4F ワイルドキャット
頑丈さ以外、すべてのスペックはゼロ戦が上だが、戦闘では頑丈さ、打たれ強さがものをいう。その後のF6Fヘルキャットになって、完全にゼロ戦をしのぐ

ガダルカナル上空で坂井氏と一騎討したグラマンF4F
ワイルドキャット 編者撮影
shibata
ゼロ戦  『ヒコーキの心』 

ひとつの作品と見ればみごとな芸術品であり、名パイロットの名人・職人芸的操縦技術をもって、時には50mから20m(!!)までに接近できればこそ、わずか2〜4発の20mm機銃の弾丸で撃墜できる、名刀のような戦闘機(初期は20mm100発 7.7mm400発の計500発ほど)であった「ゼロ戦」だが、未熟なパイロットそして乱戦も考慮に入れねばならない実用戦闘道具としては問題も多い。これは用兵家の責任である。

ゼロ戦の開発に際し、ともに戦闘機パイロットであった、故源田実 (軽量・旋回性能重視の名人向き戦闘機推奨) と故柴田武雄 (速度・航続距離重視) の大論争があったが、残念ながら、スタンドプレイに勝った源田案が重視されたことが、その後のゼロ戦の悲劇の原因になったようだ。柴田武雄元海軍大佐は松戸小金に在住していた。小生は2度ほど訪問し、お話を伺った。

名パイロットでもあった柴田少佐(当時・飛行服) 昭和14年漢口基地で


 


その後、アメリカはゼロ戦の倍の出力のエンジン(2000馬力級)による、完璧な防弾装備に守られ、薬莢の長い、直進性にすぐれた、多くの機銃と弾丸をもつグラマンF6F(12.7mm機銃2400発)、P47(3200発)等を開発し、新米パイロットでも「へたな鉄砲も数討ちゃあたる」で、ついには勝利をおさめる。
勝つためのマニュアル作りに関しては、残念ながら脱帽せざるをえない。
これは、フォードの流れ作業から、マクドナルドハンバーガー商法までまで続く・・・

日本は兵器生産においても陸軍・海軍の縄張り争い、また軍の縦割り行政が幅を利かせ、機銃も統一規格にはなっておらず、互換性に乏しく、もっとも極端な例は加速させるスロットル(アクセルレバー)が陸軍と海軍では「押して加速」、「引いて加速」という違いがあったといわれる。


グラマンF6F−3
しかし、それはそれとして、「武芸への精進」に徹した本書は、現在でも、すがすがしさを感じるほどに新鮮である。
わが国においては、反省論・罪悪論とともに、単なる感傷論に陥りがちな戦争についての論議のなかで、それらを超越して・・・

柴田武雄氏、そして坂井三郎氏もついに神話の世界へ飛び立った。
数多くのご教訓に感謝しつつ、ご冥福を心よりお祈りいたします。




ゼロ戦出現前の傑作96式艦上戦闘機
中国戦線にて 坂井氏撮影
「坂井三郎空戦記録」(日本出版共同株・昭和28年発行)

中国漢口基地における12空の歴戦パイロット達
(前列左より二人目 坂井三郎氏) 

「坂井三郎空戦記録・上巻」の表紙をかざった
坂井小隊の96式艦上戦闘機 日本出版共同株・昭和28年発行)

雲上を快翔するゼロ戦11型
(坂井三郎氏撮影)

中国戦線における96陸上攻撃機(中攻) 写真「大空のサムライ」坂井三郎(光人社)

平成12年10月
追加写真と解説
台南航空隊のエースパイロットたち  昭和17年 ラバウル
   後列左より 高塚飛曹長 笹井中尉 坂井一飛曹
         前列左より 太田一飛曹 西沢一飛曹(日本のトップエース)

ある日、ポート・モレスビー(ニューギニア)攻撃の後、歴戦のパイロットたち、坂井一飛曹太田一飛曹 西沢一飛曹はしめし合わせあったとおり、敵飛行場に引き返し、三機編隊で宙返りをした。あまり気持ちがいいので、高度を下げ二度、三度とやったが、敵は一発も打ってこない。これは三人で秘密にしておいたが、その後、米軍機から、「編隊宙返りの勇士が、今度来るときには緑色のマフラーをつけてこられたし。我らはその勇士を歓迎する・・・」旨の手紙を飛行場に落されたことから、上官にばれてしまった・・・という挿話もある。
おそらく、この写真撮影の時期の前後と思われる。

笹井中尉は、日本海軍の士官パイロットの中で最高の撃墜数を記録し、「ラバウルのリヒトホーヘン」と称された。坂井氏とは階級を超えて、互いに心から信頼しあった同士だった。昭和17年8月の戦闘で、坂井氏が大負傷のため、本土に帰還した後、ガダルカナルで戦死した。


ガダルカナルの空戦で重傷を負いながら4時間を越える飛行の後ラバウルに帰り着いた直後の坂井氏
f4f

グラマンF4F ワイルドキャット
模型は『世界の戦闘機コレクション』
開戦当初、謎の日本機「ゼロ」に翻弄された米海軍は、ゼロに対抗するには、必ず2機であたり、攻撃された一機を列機がカヴァーするように戦法を変えた。

これが有名なサッチ・ウェーブ(Thach Weave)で、生みの親は空母サラトガ所属の司令・ジョン・S・サッチ少佐。
搭乗機グラマンF4F ワイルドキャットで、F1がサッチ少佐機、F15は同僚のオヘア大尉(正式の機体番号はF13)
サッチ少佐は戦争を生き延び、海軍少将に、オヘヤ大尉は少佐に昇進後、戦闘で行方不明になったが、シカゴ・オヘヤ空港はの名は、彼から・・・

坂井三郎へ