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| mokuji | |||
| はじめに ──── 狂牛病が問いかけたもの 環境からの揺り戻し/生命は「流れ」の中にある 第一章 狂牛病はなぜ広がったか ──種の壁を越えさせた“人為” スクレイピーと呼ばれたもの/先駆者、キュイエとシェル 狂牛病アウトブレイク/レンダリングという名のリサイクル もう一つの人為/種の壁/イギリスの犯罪/ 新型クロイッフェルト・ヤコブ病/判定は人獣共通感染症 【コラム1】狂牛病をBSEと呼ぶべきか? 【コラム2】海綿(スポンジ)状脳症に共通的な特徴 【コラム3】もう一つのヤコブ病 ── 日本発、薬害ヤコブ病事件 第二章 私たちはなぜ食べ続けるのか ──「動的平衡」とシェーンハイマー なぜタンパク質を食べ続けなければならないのか/ シェーンハイマーの実験/生命のジグソーパズル/ 動的平衡のもつ意味/シェーンハイマーの一生/生い立ち/ 突然の死/シェーンハイマーの残したもの 【コラム4】タンパク質代謝の研究前史 第三章 消化するとき何が起こっているのか ──臓器移植、遺伝子組み換えを危ぶむ理由 消化管のセンサー機構/作業仮説を立ててみた/ モニター分子を追いつめる/ 食物と生体とのダイナミックな応答/消化の生物学的意義/ 「遠いところのものを食べよ」/臓器移植という蛮行/ 生命連鎖から遠い考え/実質的同等性の陥穿 【コラム5】科学実験の失敗をめぐる判断の難しさ 第四章 狂牛病はいかにして消化機構をすり抜けたか ──異物に開かれた「脆弱性の窓」 子牛に与えられたスターター/母子免疫の巧妙な仕組み/ アレルギーの引き金か 第五章 動的平衡論から導かれること ──記憶は実在するのだろうか 記憶はどのようにして保持されるのか/記憶物質の幻 マコーネルが作った科学雑誌/アンガーの実験/ ラットから金魚へ/記憶は信号の流路パターンである 生み出された物語/見てはいなかったはずなのに…… 【コラム6】グルタミン酸をとると頭がよくなる? 第六章 狂牛病病原体の正体は何か ──未知のウイルスか、プリオンタンパク質か ホルマリンに漬けても無毒化しない!/考えられない観察結果/ 病原体は進化する/核酸をもたない生物?/ グリフィスの思考実験/クールー病とヤコブ病/ 孤発性ヤコブ病はなぜ起こるのか/プルシナー登場/ プリオン説とは何か/言葉の威力/プルシナtの独走/ ノーベル賞への道/プリオン説へのこれだけの疑問 第七章 日本における狂牛病 ──全頭検査緩和を批判する 政府の対応/アメリカでの発症と日本の動き/ 全頭検査見直し論/全頭検査を行う意義/ 検出感度向上の努力を/アメリカ産牛肉の安全性/ 特定危険部位さえ除けばいいのか?/血を介しても伝染するけ/ 感染源および感染経路/「リスク分析」という欺瞞 【コラム7】エライザ法とウエスタンプロット法” おわりに ──── 平衡の回復 自然が開始したリベンジ/すべてのものは繋がっている |
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| 主な参考文献 | |||
| matsudo | |
| 福岡先生と松戸 (「生物と無生物の間」 エピローグより) | |
エピローグ 小学校の低学年で、私は都内から千葉県の松戸という場所に引っ越した。東京都の東を流れる江戸川を渡ったところだ。公務員をしていた父が、新築の宿舎の抽選を引き当てたからである。1960年代後半の頃だった。当時の松戸市は、東京圏というには田舎じみており、田舎というには中途半端な、開発途上のベッドタウンだった。 なぜこのような昔話をしているのかといえば、最近、当時のことを思い出すきっかけがあったからだ。NHKの求めに応じて、自分の卒業した小学校に出かけて行って課外授業を収録した。私は三十五年ぶりに松戸の母校を再訪し、忘れかけていたいろいろな記憶をたどることになった。 駅ビルとデッキが作られ、周辺の区画はきれいに整えられて、私が覚えているようなこまごまとした店が並ぶ低い町なみは消えていた。周囲には高層マンションが立ち、短大が四大となってその校地を拡張していた。けれども駅からほど近い台地の上にある、公務員住宅と隣に広がる公園はそのままだった。私は自分が住んでいた棟の前に行って周囲を見渡した。今も誰かがここに住んでいることが不思議に思えた。車止め、自転車置き場、ポンプ室、小さな広場、いずれもが古びているものの当時と変わらずそこにあった。 その中でことさら、私を過去に強く引き戻したものは樹木の配置である。家の前の桜、小学校へ向かう通学路の傍らに並んでいたクスノキ、公園の入り口の両側にある一対のイチョウ。幹こそずっと太くなっていたが現在もなお記憶のとおりだった。何十年ものあいだ、樹々はずっとここにあったのだ。 引っ越してきた日の記憶がある。新居は運び込まれた荷物で一杯で、父と私は、近くの食料品店で菓子パンを買って野外で食べることにした。住宅からすこし離れたところに人気のない開けた場所があった。そこは廃嘘だった。破壊された建物の残骸が一面に散らばり、横たわっていた。断面からは錆びた鉄筋が飛び出し、小石が混じったコンクリートは古びていた。奇妙な光景は、しかし、どこまでも明るく見渡せた。 私たちは陽あたりがよい広いコンクリート塊を見つけて、その上に登って昼食を食べた。気持ちのよい春の風があたりを吹き抜けていた。 後に知ったことだが、この眺めのよい台地の上には、1945年の敗戦時まで陸軍の広大な工兵学校があった。おそらく戦後、長らく放置されていたこの地は徐々に転用と再開発が進み、公務員住宅、裁判所、学校、公園などに変わりつつあった。私たちが引っ越してきたのは、そのような変貌の終盤の頃だったのだ。 つまりこの場所は、地理的に、東京とその郊外が揺する界面(エッジ)であっただけでなく、時間的には、戦後がなお戦前と接している界面でもあったのだ。界面とは、二つの異なるものが出会い、相互作用(エツジ・エフエクト)を起こす場所である。 引っ越しが決まった時、私はこの転居に気乗りがしなかった。東京の練馬に暮らしていた私は、そこが気に入っていた。今から思えば、当時の練馬区は、畑が広がり、ニワトリを飼っている農家が点在するようなのどかな田舎で、その意味では桧戸と変わるところはほとんどなかっただろう。が、東武東上線沿いのこの街に私はとても愛着があったのだ。 しかし界面がもたらす作用の前に、そんな小さな感傷はたちまち消し飛んでいくことになった。次の日から、ここは、私たち少年にとってワンダーランドとなった。 私たちはさまざまな場所で、止まったままの時間の断片を発見した。草むらの陰に入り口を開けた暗い防空壕。おそるおそる階段を下りて中を覗こうとしたが、水がたまった地下の廊下は真っ暗でその奥行きは見えなかった。 台地と駅をつなぐ細い階段の途中の崖には、分厚いコンクリートで固められた倉庫が埋め込まれ、鋲(びょう)を打った堅牢な鉄の扉が三枚ついていた(※編者)。手で引くと意外にも扉はゆるりと開き、内部に棚が設(しつら)えてあるのが見えた。そこには一抱えもある大きな、青いガラス瓶がならんでいた。胴体にはクロロフォルムと記されていた。とはいえ瓶は栓が抜かれ中身は空だった。クロロフォルムが麻酔薬であることを調べた私は、それが一体何に使われたのか思いを巡らせた。 小学校に隣接して打ち捨てられた木造の建物があった。その場所を囲む鉄条網の隙間に、人が通った跡があるのを私たちはすぐに見つけた。そこをくぐって区域内に入った。 割れた窓ガラスから覗くと黒くくすんだ廊下に塵がつもっていた。おそらく工兵学校の校舎の一部だったのだろう。建物の前には背の高い草に囲まれた四角い水面が広がっていた。貯水池かプールのように見えたが、滴々とたたえられた緑色の水の深さはわからなかった。一度、竹ざおで水深を測ろうとしたが長いさおの先が底を突くことはなかった。・・・・・・・ |
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| 後略 | |
| 相模台の不思議な建物 陸軍工兵学校 |
(リンク 表の家 松戸行脚 ※) (リンク 本町自治会 会員投稿ページ) |