| 青山学院を築いた人々 青山学院大学ホームページ【旧版】より |
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| ロバート S. マクレイ | ||
| 弘化2年(1845)ディキンソン大学卒業後米国メソジスト監督教会ボルティモア年会で按手礼を受け、巡回教師などに従事した。 東洋への伝道を決意し嘉永元年(1848)から中国派遣宣教師として25年間宣教活動を行うかたわら、『華英辞典』を著す。明治4年(1871)帰米中に、日本伝道の急務を説き、日本伝道総理として全権を託され、明治6年(1873)夫人と共に来日、宣教活動を進め美會神学校を開校した。 |
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| ジュリアス・ソーパー | |||
| 明治6年(1873)ドルー神学校卒業、同年米国メソジスト監督教会ボルティモア年会で按手礼を受け、同年8月来日し明治期日本の伝道と教育事業を推進した。耕教学舎の実質的設立者であった。 明治29年(1896)から明治44年(1911)まで青山学院神学部の教授を務め、明治34年(1901)から明治41年(1908)までは同部長を務めた。また、メソジスト監督教会の東京・横浜・函館連回区などの長老司として奉職した。日本にメソジスト関係諸機関の基礎を置くことに最大の貢献をなした。 |
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| ドーラ E. スクーンメーカー | |||
| イリノイ州モリスで公立学校の教師をしていた。異国への伝道の志を持ち、米国メソジスト監督教会婦人外国伝道局から、明治7年(1874)10月日本最初の婦人宣教師として派遣された。 同年11月16日青山学院の最も古い源流「女子小学校」を開校した。女子小学校は救世学校、海岸女学校と改称して発展していった。明治12年(1879)、5年の任期を終え帰国したが、最初の海岸女学校校舎が焼失した時に復興資金募集のため米国内を巡行し校舎再建に尽力した。 |
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| / ジョン F. ガウチャー |
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| キリスト教教育事業に惜しみなく驚異的な金額の私財を投じるなど献身的奉仕を続けた。同じ大学の後輩であるマクレイをよく理解し、尊敬と信頼の念をもって彼を支えた。美會神学校をはじめ、青山の土地購入資金、二度にわたる校舎の建築資金、その他教職員の給与の一部までをも援助した。 青山学院は事実上ガウチャーの私財をもって設立されたといえるほどの6万ドルを超える莫大な援助を受けた。 明治22年(1889)にボルティモア女子大学を設立しその学長に就任、彼の死後この大学はガウチャー大学と呼ばれている。また黒人のための初めての大学、モルガン大学の設立者でもあった。大正8年(1919)勲三等旭日章を授与された |
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本多 庸一 |
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| 明治3年(1870)藩命を受け横浜で洋学を学び、宣教師サミュエル R.ブラウン、ジェームズH.バラらの人格的感化を受け、バラから受洗した。新時代の思想・制度研修のため渡米し、ドルー神学校に学び、この時に教育と宗教に生涯を捧げる決意をした。 明治23年(1888)帰国後、東京英和学校長(のち青山学院長)に就任。在任中は帝国憲法発布、教育勅語の公布による天皇制絶対主義国家の基礎が準備される時期であり、キリスト教はその矢面に立たされたが、キリスト教界の先頭に立って護教の論陣を張った。 特に明治33年(1899)文部省訓令第12号が公布された時、キリスト教主義学校各校代表の中心となり、忍耐強く政府との折衝を続け、実質的権利回復を得た。 明治40年(1907)に日本メソジスト教会が設立され、初代監督に就任し、青山学院を去り名誉院長となった。青山学院のみならず、キリスト教界の中心人物として日本におけるキリスト教宣教に奮闘の生涯を送った。 |
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