総会来賓ご挨拶  井出先生 平光交友会長 内藤先生
御来賓の紹介

 井出 英人先生

  昭和18年7月19日生 長野県出身
  青山学院大学理工学部長
  所属:理工学部電気電子工学科

      理工学部に関する頁   




      
 
     井出先生
略歴 学会
昭和41年* 工学院大学電気工学科卆 昭和41年* 電子通信学会
青山学院大学理工学部 44年* 日本ME学会
電気電子工学科助手 55年* バイオメカニズム学会
45年* 工学院大学院工学研究科 全国大会組織委員理事
修士課程修了 56年* 電気学会
55年* 青山学院大学理工学部 58年* ロボット学会
電気電子工学科助教授 平成元年* 日本工業教育協会
60年*

UCLA客員教員として1年間勤務
62年* UCLA教授
平成 8年*
青山学院大学理工学部長就任
10年* 同上 再任

学位 著書
昭和45年* 工学修士(工学院大学) 昭和61年* 「生体情報工学」森北出版
51年* 工学博士(工学院大学) 平成 4年* 「電気回路の動的解析」
昭和51年* 青山学院学術褒賞受賞 平成 5年* 森北出版
平成 3年* 永年勤続表彰(25年) 「あいまいとファジィ」
コロナ社
ファジィ−学会著述賞受賞

井出理工学部長のご挨拶



私は長野県の佐久というところの出身です。高校のころに、松戸市という名前を知りました。それは当時新聞に大きく、「すぐやる課」というものができた、という記事があったからです。

私は学部長は2期目ですが、私のような者がなぜ理工学部長を引き受けたか、といいますと、松戸市の「すぐやる課」ではありませんが、私の取柄は、と思うと、いろいろな不満や問題を「すぐ、まな板に乗せて、議論して進めること」、なのではないかと思い、そのぐらいだったらできるだろう、ということで拝命した、という次第なのです。


今日、こちらに来るに当たり院長、理事長から、「松戸の皆さん方によろしく。本来なら自分たちが行かなければいけなかったのだが、都合がつかずあなたに行っていただくが、代表で行くのだから粗相のないように・・・」 ということを強く言われました。まずこのことを皆様方にお伝え申し上げます。

ここで、現在の大学の現状を幾つか述べさせていただきたいと思います。

はじめは、今年の11月16日に 125周年の記念式典があるということです。
二つ目は2〜3日前の新聞記事で、驚いたかたもあったかと思いますが、学院は厚木を撤退する、ということです。これにつきましては、後ほど細かく述べたいと思いますが、なぜ移るかということを簡単に述べさせていただきます。


約十年前、松戸、千葉、千葉の九十九里辺りからも、渋谷だったら通えるという学生がたくさんおりました。
神奈川の学生はとても増えましたが、最近千葉、埼玉の学生は非常に少なくなってしまいました。学生の質の低下もございますが、入学希望者が年々減ってきてしまっております。内藤先生が学長の時に比べると、1万人以上も減ってしまっております。

それで、今度は渋谷から70分で行ける淵野辺というところの、それこそ駅の目の前といってもいい、四、五分のところの約5万坪ほどを、青山さんだったらぜひ買ってほしいといわれ、そこなら先生方も、学生さんも渋谷には飛んで帰れる土地だということで、今、理事会を通しまして、学部長会、教授会で交渉に入ところですが、慎重にいろいろ検討しているところです。


次に皆様方ご存じと思いますが、2001年の4月までに渋谷の礼拝堂の場所を平地にし、13階建の建物を建て、一・二階が礼拝堂で地下を駐車場。そして礼拝堂は多目的ホールとして、ときには演奏会もできるというものにするという計画があります。上階は法学部、あるいは文学部の研究室で、いわゆる13階建のメモリアルホールにする計画です。

この方がいなかったら青山大学の今日はなかったのではないか、というほどの寄附をなさってくれたガウチャーさんという方のメモリアルホール・ガウチャーメモリアルホールを13階建にするという計画です。


さて、理工学部は青山学院創立90年の時にでき、今年で35年です。
できた時は物理、化学、機械、経営工学、電気電子の5学科で、その後35年間細々とやってまいりました。松戸支部の法学部の関先生には、ものすごい金食い虫だ、と言われかねませんが、ここにきて、お金をかけない、そして人も増やさないという形で、「機械創造工学科」「経営システム工学科」「情報テクノロジー学科」の3つが新しくできました。

現在、「機械」と「経営」が「機械創造」「経営システム」「情報テクノロジー」になりました。
さらに「電気電子工学科」「物理科」「化学科」の6つの学科になります。これから大いにPRいたしますので、もしも皆さん方のお子さんとか、お孫さんとか、知り合いの方がいましたら、ぜひ青山にご応募してくださいますように、私からもお願いしておきます。これから理工学部は、もっともっと進展するところです。

  
昨年度、日本の大学の25大学に文部省の「ハイテクリサーチセンター」という制度が導入されることになりましたが、本学各学部からのご協力を得まして、そのうちのひとつに選ばれました。

そのなかの多くは医学部、生物研究といった医学系の研究所で、工科系は全国で5校だけです。その中の理工学部のものはハイテクリサーチセンターという4階建のもので、太陽電池ほか、いわゆる材料の研究所で、現在、内外からたくさんの研究者、あるいは外国の研究者が見学に来る、すばらしい研究センターになりました。

皆様方にお願いと希望ですが、先ほど石井淳子さんからお話がありましたように、やはりベンチャービジネスをこれから考えなければいけないと思っております。

私達理工学部だけではないでしょうが、大学は皆様方の企業でも、あるいは商店でも、何でも相談に応じているということです。ですから、企業で、このような仕事をしたいとか、あるいはこうしたものができないかとか、そうしたことをどんどん理工学部、あるいは相互の乗り入れをしております部にお寄せ下さい。

「大学に相談に行くのは敷居が高い」、などとおっしゃらないで、ぜひ大学にこういう企業にしたい、あるいはこうした工業製品をつくりたいのだが、相談に乗ってくれないか等という相談に私達は胸襟を開いて待っておりますので、ぜひおこし頂きたい、大学を大いに活用して頂きたいと思っております。


大学の図書館もOBの方は自由に閲覧はできるんです。
ところが、遠くから来てこの本を借りたいと思っても、なかなかできなかったのが、先日、教授会の議を経まして、OBの方も、数冊の、あるいは十冊ぐらいの本を二、三カ月の間、免許証、健康保険証等の写しで青山の卒業生ということの証明ができれば、本を自由に借りることができる、ということになりました。
どこのキャンパスでも図書館がありますし、そうした制度もできましたので、青山学院に行っても寄るところがない、などとおっしゃらずに、お立ち寄り下さい。こんな本が欲しい、というような希望があれば、いくらでも用意いたします。

そうしたことも含め、皆様方が縦のつながり、横のつながりを密にされて、新しい人たちもぜひ来たい、また来年も行ってみよう、というような形の校友会になっていただきたいと、切に希望しております。

今日はお招きいただきまして、ほんとうにありがとうございました。



青山学院校友会会長

平光淳之助様

大正12年 東京都出身
昭和19年 青山学院専門部文学部英文科卆業
       日本放送協会(NHK)
       テレビ東京
       日本放送協会(NHK)会友

昭和49年 社団法人青山学院校友会評議員
       (現在に至る)
   63年 学校法人青山学院 評議員
       (現在に至る)
平成 6年  社団法人青山学院校友会 理事
       校友会大学部会長 中央支部長歴任
    8年 社団法人青山学院校友会 会長
平光淳之助校友会長
小野院長

平光校友会長のご挨拶

平光でございます。
昨年の創立総会にもお招きを受けまして、理事長とご一緒に参りました。
また、かわりばえもなく同じ顔で参りまして恐縮なんですが、支部長からいいから来いというのでお邪魔をいたしました。
高いところから大変恐縮でございますが、かねがねお願いをしております維持協力会、あるいは青山カードといったもの、そのほか皆様からいろいろお助けいただいておりますことを厚くお礼を申します。と同時に、これからもよろしくお願いをいたします。

青山カードというのは大変便利で、物を買えばそれが即座に学院に寄附になるわけで、説明書が皆さんの袋の中に入っておりますので、ぜひ読んでいただきたいと思います。
私は大木先生ほどではございませんが、しゃべり出すととまらなくなる癖がございますので、皆様立っていらっしゃるので大変恐縮ですが、私が最近感じていることをお話しさせていただきます。

今年は青山学院の創立 125周年でございます。
また、皆様が出られた大学が50周年という、大変おめでたい年でございます。

私が卒業した年は、学院創立70周年でございました。そのころと今の隆盛を極めている青山学院とを比べて、感慨無量なものがございます。
といいますのは、私は昭和16年に入学して、19年の9月に卒業したのですが、昭和19年の4月、私の1年後輩の文学部と高等商業学部(当時は文学部と高等商業学部しかございませんでした)の学生は明治学院へ移ったのです。青山学院の文学部、高商部というのはそこでなくなった、というわけです。

青山学院の4年制の専門部はそこで切れたのですが、おそらく当時の理事者の方々は大変心配をされたろうと思います。
従って、昭和19年11月16日の創立記念日に式典などは行われませんでした。

学院では笹森順造院長がおやめになって、院長代行の方を経て、昭和18年9月、海軍機関中将(兵科以外では最高の位)の小野徳三郎さんという方が院長としてお見えになりました。

戦後の方は、青山学院は軍からにらまれて、軍部にすがって存続をしたのだろうと思っている方もいらっしゃると思いますが、そうではなく、小野院長は海軍の機関学校、海軍大学校を主席で出た大変立派な方で、当時は退役はされておりましたが、敬虔なクリスチャンだったのです。

たしかに青山学院は軍部からあまりいい目では見られていなかったと思います。というのは、昭和17年か18年ごろに、戦後の昭和42〜3年に皆さんが経験した学園紛争ほどではありませんが、学内でちょっとしたもめごとで学生が騒いだことがありました。そのことで軍部からにらまれたのですが、それでなくても、キリスト教による教育をしている学校ということで、にらまれていたと思います。
 
その後、戦時学制の変更で、青山学院と関東学院の学生は明治学院と一緒になりました。
青山がなくなるという危機に際して小野徳三郎院長は非常に心配して、これを残すために、文科系ではなく理科系にしよう、ということで、青山学院工業専門学校という青山学院らしくない名前をつけて、土木、発動機、そして航空機械の3つの学科をつくりました。

つくったといっても、今、理工学部長がおっしゃったような、立派な今の青山学院理工学部のようなものではなくて、当時、機械を入れて工業専門学校をつくるなどということはまず不可能ですから、小野院長は「現場主義でいこう」ということで、机の上だけでなく現場、すなわち工場へ行くなど、「実学」で勉強する青山学院工業専門学校として、学院はかろうじて息をついて終戦までにいたった、というわけです。

終戦の年の10月には、もと軍人であった者は教育関係にいることができなくなり、GHQからの指令で小野院長はおやめになりました。その翌年に青山学院専門学校を発足させ、「工業」の文字がとれたたのです。
そして、昭和25年に青山学院大学となりました。

それから先は皆さんがご存じでしょうが、私の体験した昭和19年の式典のない創立70周年という、学校なくなる寸前にまでなった青山学院の歴史を、現在の学院 125周年、大学50周年という記念の日を前にして顧みる時、大変感慨無量のものがあるということでございます。
そして、これからもご寄附、そのほかよろしくお願いしたい、というところに話は飛びます(笑い)。そういうことでございます。
ありがとうございました。(拍手)

【ここで校友会松戸支部より青山学院校友会に突然の寄附贈呈】

【平光会長】


どうもありがとうございました。確かにお預かりいたしました。
こうした会場でいただくというのは、今まで経験がございません。
打てば響くような、松戸市の「すぐやる課」ですか、 その精神がここにも生きているのかな、と思います。
ほんとうにどうもありがとうございました。
本部へ、確実に届けることにいたします。どうもありがとうございます。(拍手)






井出先生  平光校友会長  内藤先生


司会

  それでは、乾杯のご発声を、青山学院大学前学長で千葉県東葛支部名誉顧問をお引き受けいただいております内藤先生(現・松戸市教育委員長)にお願いをしたいと思います。


内藤先生のご挨拶

今日は学校から井出工学部長にはお休みの中、深大寺の大変お遠いところからおいでいただきました。
また、昨年に引き続いて校友会長の平光さん、そして、校友会本部から竹内さん、組織拡大委員長岸本さんにお越しいただいております。
皆様、ありがとうございました。


昨年の創立総会から、ちょうど1年経ちました。今日このように同じ学窓に学んだご熱心な校友の方々が大勢お集まりになり、総会が開かれることになりました。心からお慶び申し上げます。

実は私のすぐ近くにも校友が住んでいらっしゃいます。李さんとおっしゃる、大変美人の奥様なんですけれども、今まですれ違うだけだったのですが、今は「やあ やあ」と手を握りたいような感じでおつき合いすることができるようになりました。また、有志の方々と、フランス文学でも読んで楽しもうよ、ということで、集まりをさせていただいて、実は私は大変楽しんでおります。校友会ができたことで、大変得をした感じです。

新松戸では同じマンションの中に卒業生が二、三十人ぐらい住んでいらっしゃるようですね。そういうことで、お互いが非常に世界が広くなったのではないでしょうか。そうした点でも大変校友会の支部ができで、ほんとうによかったと思いました。
昨年1年、準備の期間もありましたけれど、稲葉支部長はじめ幹事の方々がご熱心にいろいろ準備をなさり、またどうやって基礎を築き、これから校友会を発展させようかと、大変努力をしていらっしゃいました。私も、時々呼び出されましたが、こんなに熱心にされちゃ僕もかなわんなと思って、時々サボっていたのですが、1年経った支部の総会をどのように迎えるかということに、ほんとうに一生懸命やっておられたと思います。
“ときわぎ”という、こんな分厚い、よくぞあのようなもの、いや、ああいう立派なものをつくられたな、ということを、実は密かに感心をいたしました。


先ほど井出先生からも学校の近況のお話もありましたが、学院は校友の方々の地道なご努力によって、全国区の大学として大変著名になり、多くの学生さんが目指す学校になっております。
野球も大変強くなりましたが、それだけではありません。
いろいろな国際シンポジウム、また先ほど井出さんがおっしゃいましたように、理工学部が特に選ばれて、「センター・オブ・エクセレンス」という代表的な研究機関に指定される、ということもあり、年々盛んになっております。これは、校友の方々に現役はお礼を言わなきゃいけないだろうと思います。

ただ、ご承知のとおり今の世の中はなかなか厳しいものがございます。
毎度同じことを申し上げているのですが、私学というものの生き残るためには、校友の方々の物心両面にわたるご支援、ご支持というものが不可欠でございます。特に、2010年はユニバーサルアクセスという、全高等教育機関の収容人員と志願者が“とんとん”になるのです。
“とんとん”になるからみんな入るか、というと、ある一部のいい学校に偏るに決まっている。
そうしますと、私立学校というのは受験料と入学金と授業料の1年間分を1年中に使うという自転車操業をやっておりますから、1万人も受験数が減るというと、約三億五千万ぐらいの減収でございます。そういう点でも、非常に経営が厳しくなる。
別に、校友の方だけに頼るわけではありませんが、やはり校友の方々に、基金的にも、また精神的にも支えていただく以外、2010年以後の厳しい大学間競争を凌いでいくことはできないと思います。そうした点でも校友会が盛んになり、校友の方々が母校に熱いまなざしを注いでくださいますことは、ほんとうにすばらしいことと思うと同時に、ぜひこうした機運を、さらに進めていっていただきたい、と心から思っております。

厚木について一言述べさせていただきます。
厚木はちょうど昭和57年に国際政治経済学部という学部をつくるために、大木先生が急遽お買いになったところです。
当初から交通アクセスが非常に厳しくて、慶應の日吉のように改札口を出ると学校、というわけにいかず、駅からバスで30分以上かかるというようなところにあるのです。そしてバス代もものすごく高いんですね。往復で 600円を超える。
となると、新宿から電車賃を入れますと、1日で1,200〜1,300円かかります。これは通常の教育負担能力を超えております。そうしたことで、理事者側もまた教員たちも、将来のことを大変心配に感じておりました。

ちょうど今、企業もいろいろリストラをしていく中で、大変いい機会をとらえ、新しいキャンパスに移るということになるようです。
いずれにしましても、現在の学校の状況は井出先生がご報告のとおり、これからが勝負だと思いますが、将来を見据えての校舎の転換については校友の方々のご理解をいただき、ご支援をしていただきたいと思っております。


大変長くなりました。千葉県東葛支部の発展と、それから本日、ここにご出席
の皆様方のご健康をお祈りして、また母校の益々の発展を心から祈念して乾杯いたしましょう。
ご唱和をお願いします。

乾杯!!

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