ユダについて
イエスと12人の弟子
遠藤周作で読むイエスと十二人の弟子
芸術新潮 1997年10月号


最後の晩餐のための習作(ユダの頭部)
レオナルド・ダ・ヴィンチ 1495-97
遠藤周作で読むイエスと十二人の弟子
芸術新潮 1997年10月号
・・・イエスはこの時、こう答えられた。
マリアから私は地上のメシアという意味で香油をかけてもらったのではない。私の弔いの日のためにそうしてもらったのだ (ヨハネ、12の七)。

ユダはイエスが、人々の期待する “ 政治的な救い主 ”、つまりイスラエルをローマ支配から解放する英雄などではないことを知っていた。そしていま、イエスの答えの意味を理解しえたのも彼だけだった。
師は、現実的には無力な “ 愛の救い主 ” として死のうとしている・・・・。

ユダは多くの弟子たちがイエスに幻滅して去った後も師に従った数少ない一人である。
イエスもまた彼を信用していたことは、ユダが弟子団の会計係に任命されていたことからも分かる。
しかし、いまや彼は愛する師の真意に反発することを禁じえない。


   <自分を愛するようにイエスを愛し、自分を憎むようにイエスを憎んだ>


ユダは、師の心変わりをどこかで期待しつつ、ともにエルサレムに入った

そして 「 最後の晩餐 」 での決定的決裂、銀貨30枚で師を売り渡すユダ ― だが彼は、イエスの師の決意を感じてはいたが、そのきっかけをまさか自分が作ろうとは思っていなかった。逮捕された師を眼前にし、あらためて彼の心は揺れ動く。


愛しているイエスが皆に撲られ、血を流している姿を見た時、師にたいする愛と憎、自己嫌悪、それらさまざまな感情を味わいながら、事の推移を見守っていたのであろう。
そしてイエスの死刑が決定した時、彼は自分も死なねばならぬと思った。

イエスは人に今、侮辱され、軽蔑されている。しかし自分は永遠に人間から軽蔑されるだろう。
イエスが今日、味わうものを自分は永遠にあじわねばならぬ。その不思議な相似関係にユダはこの時気づいた筈である。

その時、彼はたしかにイエスの存在の意味がわかった。
彼は福音書の記述にかかわらず、イエスをやはり、たしかに信じたのである。

ユダはカヤパに金を返そうとしたが、冷ややかに一蹴された。手に握りしめたその30枚の銀貨を彼はカヤパ官邸の庭に投げ捨て、城外に出て自分の首をくくった。
ペトロは後にこう語っている。

「 彼はうつ伏せになって (死んでいた・)」。

うつ伏せになったユダのみにくい死体を私たちは思いうかべる。
ユダもまたイエスによって救われるだろうか。

私はそう思う。

なぜなら、ユダはイエスと自分の相似関係を感ずることで、イエスを信じたからである。
イエスは彼の苦しみを知っておられた。

自分を裏切った者にも自分の死で愛を注がれた・・・。 

首を吊ったユダ
ピエトロ・ロエンツェッティ 14世紀前半
フレスコ画
罪の重さに耐えかねて首を括った“裏切り者”の末路
遠藤周作で読むイエスと十二人の弟子
芸術新潮 1997年10月号
「 悲しき男 」 ユダの孤独な葛藤は終わった。

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